成功と幸福はちがうということを知ったら、生き方が楽になった。三木清の人生論ノートを読んで。

2017.06

現在 絵描きと会社員のパラレルワーカーをしているYuko (@uu_yu) です。


「成功」と「幸福」はちがう。

これは、三木清の人生論ノートの名言です。

突然ですがわたしは、似ているからこそ間違えやすい この2つのちがいを知って、肩の力が抜け、今までより少し楽に生きられるようになりました。

好きなことをしたい人、夢がある人、何かを探してがんばっている人…

そんな人にぜひ、読んでもらいたいです。


CONTENTS

現代人がしあわせを感じにくい理由


成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、
人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。

人生論ノート 三木清

夢を叶える。成功する。心にゆとりのある幸せな生活。

似ているワードなので、ひとくくりのイメージで考えがちだけれど、ひとたびイコールで結ぼうものなら、人生は辛いものになってしまうかもしれないのです。

成功できない自分を認めてあげることが出来ないのは、とても辛いから。

夢を叶えること、成功すること、幸せな生活をすること。

似ているようで実は全く違う、これらひとつひとつを切り離して捉えるようにと、わたしに教えてくれたてつがくがあります。

それが三木清の「人生論ノートです。

三木清の「人生論ノート」とは

このてつがく書の内容は、まさに複雑な現代人のこころの葛藤を説いてるかのようでした。

しかし、驚くことに、この本は1937年に書かれたもの。
1937年というと、ヒトラーのファシズム、日中戦争・・・という遠い歴史の中のように感じる。

しかし、この80年も前に説かれた本を「現代人こそ読むべきだ」と伝えているのは、あの有名なアドラー心理学の解説をした、哲学者の岸見一郎先生だ。

これは、岸見先生が三木清の「人生論ノート」をNHKの「100分de名著」の第1回で解説されていた内容の一部を、わたしなりに噛み砕いてご紹介したものなので、てつがくといえども親しみやすいと思います。


成功」は過程であり、「幸福」は存在

「成功」=「幸せ」だといつまでも幸せになれない

「成功すること」=「幸せ」になってしまうと、いつまでも幸せになれない人が出てくる。

残念だけど、この世のだれもが夢を叶えることはできない。

成功するのは一握りという現実があるのだ。

極端な話、クラス全員が宇宙飛行士になりたいと願っても、全員が宇宙へ行けるわけじゃない。ですよね。

オリンピックに出たいと願っても、願った全員が出れるわけじゃない。

全員が成功できるわけではない。それが現実だ。

しかし、成功できない自分を責めてしまったり、自分は不幸だと思い込んでしまうのは、ちがう。

その一方で、成功したにも関わらず「今の自分は本当に幸せなのだろうか?」と疑問に感じてしまう人もいますよね。

その人は、きっと「成功」=「幸せ」がイコールと考えているから、手にした成功では足りないと感じてしまうのでしょう。

夢を叶えたものの・・・
有名になったものの・・・
結婚したものの・・・
出世したものの・・・

追い求めていたのは「成功」だったから、心の中に混乱が生じてしまう。

そう教えてくれています。

「成功」はあくまでも過程である

決して、成功すれば幸せにたどり着くわけではない。

あくまでも「成功する」というのは、人生の中の過程のひとつ。

「成功」は人生の中の出来事のひとつなのだ。

困ったことに、実は「成功」には終わりがないことが多い。

ある地点に到達すると、もっと成功している人がもっと先にいることに気づくものです。

すると「自分はまだまだだ。」と思う

さらなる先の成功を目指し、努力して進むのはいいことですが。

けれど「まだ成功していない」と自分を奮い立たせたとしても、「まだ幸せじゃない」という勘違いをしてはいけないのです。

これが、この本の中でわたしが学んだ大きなポイントでした。

「幸福」とは、存在である

何かを達成できたから幸せになれるのではなく、人はもう、今この瞬間に幸福である。

という考え方が「人生論ノート」なのだと、岸見先生は解説していました。

「幸福」とは個々にとってオリジナルである。他の人にはマネできない。

人と同じ形の成功は追い求めることができるけれど、同じ形の幸せは叶わないのだ。と。

「成功」は量的なもの、「幸せ」は質的なもの

三木清は「人生論ノート」の中でこう説いているそうです。

「成功」は積み重ねて、人生の合間に起こっていく過程。

たくさん成功する人もいれば、少ない成功の人もいるだろう。「成功」は量的と言える。

一方で、「幸福」は質的なものなのだ。と。

幸福は人格である

中でも、ハッとさせられた言葉があります。

“幸福は人格である”という考え方です。

自分はなにに「幸せ」を感じるか?

幸せの感じ方や捉え方は 自分の「人格」を表すと言えるかもしれないし、

自分の中に最後に残る 捨てられないもの、「人格」が在ることが 幸福と言えるのかもしれない。

捨てられないもの

「人生論ノート」の中で、こんなフレーズがあります。


刹那的な偽りの幸福(地位や名誉、お金など)を
コートを脱ぐように いつでも捨てられる人は、真に幸福な人なのだ。


それでも決して捨てられないものは真の幸福、
人格であり、いのちである、たった一つのものである。

人生論ノート

言い回しが難しいですが、岸見先生はこれを自身の体験をもって解説してくれました。

先生は以前、心筋梗塞で倒れ、ベッドの上で全く身動きができない状態になってしまったそうです。

仕事を失い、他にもたくさんのものを失ったという。

そんなとき、「それでもなお、自身は幸福であるか?」と考え抜いたそう。

岸見先生が気づいたのは、

「幸福と思っていたのは実は成功だったかもしれない。そんなものは脱ぎ捨ててもいいんだ。」

ということ。

まさに三木清の「人生論ノート」そのものです。


三木清のてつがくは、自分に迷う人への処方せん

好きなことをしたい、夢を叶えたい、幸せな人生にしたい。

自分の将来をどうしたいのか?と悩んでいる。

そんな自分の願いや悩み、迷いと戦っている人にとって、

「成功と幸せを一緒にしてはいけない」とは、まさに目からウロコの考え方だったと思います。

わたしの話ですが・・・(余談)

わたしの話になるけれど、「自分の夢ってなんだろう?」って見失って悩んでいた時期がありました。

特に夢だったデザイナーを辞めてフリーで活動していた時期。

そんな時に、必要だった考え方はこれなんだと思います。

自分は何になりたいんだ?何をしたいんだ?と思いは深まるばかりで・・・

人生論ノートで考えれば、その時のわたしは 自分の “成功の形” を探していたのだと思います。

自分の“幸せの形” とはまた別のものなのに。

自分の“幸せの形” を見つけた時

それは、1年弱の海外生活から帰ってきたときの感覚が、自分の“幸せの形” を見つけた時だったと、思います。

海外へ行くまでの自分とは比べ物にならないくらい、こころが軽くなった気がしました。

それはきっと、文化のちがう国で目にした “幸せな家族の姿” とか、

自分が素直に “したい” ことがあり、実際に出来る時間があったとか、

そういう日々で感じられる「幸福」が自分の中にあったからだと思います。

その感覚は、「なにかを成し遂げること」とはまた違うもの

それが自分の中で分かると、生きるのがとても楽になる。

 結局1番大事なのは、自分が「考える」こと

わたしの話が長くなりましたが、岸見先生のすてきな解説がまだあります。

「幸福と幸福感はちがう」ということ。

「幸福感」は高揚した気持ちで「感覚」でとらえるものです。

「幸福」は「知性」で考えるものだ、と説いている。

うーん難しい。

言葉の選び方やとらえ方・・・ちょっと考えてみよう。

一瞬に感じる「幸福感」

「幸福感」は一瞬だったりする。

たとえば、すごく美味しいものを食べたり、よく寝れた朝だったり、欲しかった本が見つかった、好きな人と会える夜だったり・・・

確かにそれらは高揚する気持ちで、「感覚」だ。

わたしの幸福は___?

ならば、「幸福」って何だろう?と考えてみると、

家族がみんな健康で元気でいること

今日絵を描くために悩む時間があること。

一緒に将来について話せる、小難しいことも現実味のない想像をすることもできる、じっくりと話せる友だちがいること

わたしはそんなところです。

なんとなくだけど、幸福感と幸福。その違いは捉えらていると思っています。

きっとこれは、常に考えるべきなのでしょう。

周りから与えられた幸せのイメージではなく、自分なりの幸福について考え続けること。

「考えることを放棄してはいけない」と、岸見先生は最後に伝えていました。

三木清の名言の数々、まだまだつづきます。

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