2020年。春の消失

2020年 春。世界が変わってしまった。

理由は、言わずもがな。

 

だれかと会うことも話すことも減ってしまったので、心で想ったこと、頭で考えたことが自分の内側に溜まったまま。沢山たくさんあります。

言葉にして外に出していかないと、中途半端に熱がこもって体が苦しいです。

わたしと同じように感じている人も多いはずでしょ?

だからちょっと吐き出させてください。言葉を出させてください。


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2020年 春の消失

 

「時間を過ごした」という感覚が消えた

はじまり

ほぼ大丈夫だった。

あぁ、自分のために使える時間がたっぷりできた。

幸い、自分には家でできることが山ほどある。ポジティブにとらえよう。

 

はじめはそんな風にして毎日を進めていた。

やりたかったけど出来ていなかったこと、To Doリストにはまだまだ沢山あるし、増やそうと思えばいくらでも増やせる。

やるべき仕事もあったし、新しい仕事も入ってきた。

 

時間が増えたようで、やる気も高まった。今まで会社へ通っていたときは、

通勤時間がもったいないな… この疲労がもったいないな…

そんな思いもありながら、週末に思いっきり自分のことを詰め込んでこなしていたから。

朝起きてしっかり身支度をして電車に乗る。朝の時間一式がオフィシャルに「やらなくていい」なんて嬉しすぎた。

そうして、ひたすらに毎日毎日家にこもってPCかスマホと向き合う時間が爆増した。

 

1週間を振り返ると、やりたいことがすっごく進んだな〜!やっぱり時間があるってちがうな〜! 

そんな風に嬉々としていた。

 

春が過ぎた。でも、わたしはこの時間を過ごしていない

そうして、5月。いつの間にかゴールデンウィークになった。

家に居すぎて、その境目すらも分からなかった。

空気は暑くなっていた。散歩をすると汗ばむようになった。夏の空気が近づいてきたようだった。

 

春は過ぎたようだ。でも、わたしは春を過ごした感覚がなかった。

 

自粛期間中も、晴れの日は散歩をしていたはずだった。

あっ。桜が咲いた。とスマホで写真を撮った。

桜の蕾がふくらみ、きれいに咲いて、散っていくのを見た。季節外れの雪が降るのも見た。

桜だけでなく、散歩コースで日々移り変わる花や草木の様子を楽しんですらいた。

ちっぽけな発見に喜び、そんな小さな幸福感を感じるようになった自分に対して、悦に入ってすらいた。

 

それなのに、不思議と時間を過ごした感覚がないのだ。

2020年3月から5月。3ヶ月。90日間。2,160時間。

てきとうに言い換えてもかなりの時間がそこに在る。

 

毎日やることはやっている。絵を描ける時間は増えて、むしろ、以前よりやりたいことはやれている。

季節のうつろいも目にして写真も撮っていた。

ともだちとビデオ通話もして会話していた。

手帳にも色々と書きこんである。

 

でも、自分の中に春がない。すっぽり抜けた。

 

「時間を過ごした」という実感はどこから生まれるのか?

数ヶ月という時間を確かに過ごしていたのに、過ごした時間を感じられていないのはなぜか?

自分なりに考えてみて気づいた。

 

だれかと思い出となる時間を過ごしていない。

 

だれかと思い出となるような時間を、空間を共に過ごすことで、人は「時間」という感覚を内側に蓄積していくのだろう。

バーチャルな空間での「共に」ではそれが乏しくて、同じ空間で過ごした時間と感情を自分の中に積み上げていく。

そうやって、時間をいう質量を感じているのではないか?

それが時間を過ごしたという実感になるのではないか。わたしはそう思う。

 

この数ヶ月、わたしはだれかと特別な思い出となる時間を過ごせていなかった。

過ごせるはずだったものもバーチャルで、分割された画面上で顔を合わせた会話をするに終わってしまった。

 

画面越しでも会話できることが幸せ。

何もない毎日が思い出。ささやかな日常が思い出。

そう耳障りのいいフレーズを言いたい気もするが、やっぱり違ったのだ。

 

ビデオ通話での会話が楽しくなかったとかバーチャルだと意味がないとかを言いたいのではない。

時間を過ごした実感を失わせるほど、同じ空間で過ごした時間や共有した感情で成り立つ思い出は尊かった、と気づかされたのだ。

 

一緒に歩き疲れた体の感覚とか、途中から雨に降られて大変だったなぁとか、混んでるから諦めた方のランチのお店とか。

そういうのもひっくるめて思い出だよなぁ、と。

 

家族との距離が詰まった

最後にもうひとつ。

良い面と悪い面があったこと。それは家族との距離が近くなったこと。

今まで、こんなにも毎日毎食いっしょにご飯を食べることはなかったし、テレビのニュースに対しての憤りを口にしたり、今日の状況は良くなったか?なんて報告し合うこともなかった。

会話は確実に増えた。これは良かったこと。

 

一方で、この狭い空間に閉じ込められた状態で、憤りばかりのニュースばかりが流れてくる。

狭い空間に悪い空気ばかりが送りこまれてきて、さらに自分たちの内側から憤りの負の感情も混みあげてきて、息苦しさは日に日に増していった。

 

家族との距離は適切なスペースが必要だ。少なくともわたしはそうだ。

電車の中でもこれ以上パーソナルスペースに近づいてこられると不快。。。というのがある。

自粛期間中は、家にいるのに満員電車の中みたいに距離が近すぎると感じることもあった。

 

どんなに必要な存在でも、近すぎると詰まる。

でも、ただただ流れてくるニュースに壁で防御するように、「そうか。近すぎるのか」と客観視することでうまくやれるようになった。と思う。

 

6月になって少しづつ戻ってきた

時間を過ごしたと実感することを失ってしまい、2020年の春はすっぽり抜けてしまった。

家族との距離は近づき、詰まったりもした。

そんな風に過ごした2020年の春を経て、自分の内側のモヤモヤを客観的にとらえることができて、ようやく少しづつ色んなものが戻ってきた。

感覚とか、外とのつながりとか。

 

せっかくなので、この数ヶ月に感じたことは残してみたい。

もっともっと時間が経って思い返したとき、今とは違う感覚の上で、この空白の時間の質量は重くなっているかもしれない

そうだといいなぁ。

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